はじまりの魔法とグラサン少女




はじまりの魔法とグラサン少女(下) 


〜7〜



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突然、僕の目の前に現れた悪魔は、言う。

「世界を救え。【はじまりの魔法】を見つけて、世界を救え。」

最初は、夢か何かだと思っていた。
でも・・・それは現実として目の前にいる。

真っ黒い影のような、その悪魔は、何度もその言葉を繰り返す。
繰り返す繰り返す繰り返す繰り返す繰り返す。

僕は狂ってしまったんじゃないか、幻覚でも見ているんじゃないか、そう思うことができたなら、まだ幸せだったかもしれない。
でも・・・それは現実として目の前にいる。



突然、僕の目の前に現れた悪魔は、言う。

「お前を喰らう、お前の体を喰らう、お前の精神を喰らう、お前の幸せを喰らう、お前の大切なものを喰らう。
 代わりに我は力を与える。世界を救うことができるだけの力を与える。」

身体の自由を既に奪われてしまった僕は、それに耳を傾けることしかできない。
僕を喰らう・・・? 世界を救う・・・?

悪魔は大きく口を開ける。
真っ黒い影のような悪魔が持つ口は、僕を丸呑みしてしまうぐらいに大きく広がる。



そして僕は、抵抗もできないまま、悪魔に喰われる。
喰われる瞬間、脳内に不思議なヴィジョンが出てくる。
それは、僕が世界を救っている姿。【はじまりの魔法】を使って、人間を消している僕の姿。
なんでそれが【はじまりの魔法】なんて解るのか、なんで僕の脳内にそんなヴィジョンが浮かぶのかはわからない。

でも、そのヴィジョンを見て、僕は世界を救わなければならないのだと確信する。
あまりにも可笑しなそのヴィジョンは消え失せ・・・



目を覚ました僕は、世界の本当の姿と、僕の中に入り込んだ悪魔の姿に、気が付いた。



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「・・・なんのつもりだ、進藤竜一。」
「おやおや、思ったより登場が早いですね、右京こまちさん。」

眼の前にいる、スーツ姿の優男、進藤竜一を、私は鋭く睨みつける。
しかし、私の睨みは、まるで風に揺らぐ柳のごとく流される。

「政府が抱える裏の組織の人間が、どうしてその女と一緒に居る?」
「さてさて、どうしてでしょうか。」



進藤竜一。私は、この男を知っていた。
政府の、決して表舞台には姿を現さない、一般人は存在すら知らないであろう組織、国家国防省に所属するこの男は、
以前から面識があり、私は何度か悪霊退治の依頼を受けてきていた。
国家国防省は、代々右京家の重要な取引先であり、私の父である右京家先代当主も、国家国防省から依頼を受けて、
何度か強大な悪霊や化け物を討伐していたことからも、つながりは深い。

それに、私はこの男の依頼を受けて・・・烏丸祐一郎を討伐しているのだから、忘れたくても忘れられない人物だ。
烏丸祐一郎討伐後は、国家国防省からは一切依頼が来ていなかったため、進藤竜一と会うのは、約10年ぶりになる。

・・・私も、進藤竜一も、10年経っても、顔立ちや風格がほとんど変わっていない。
この男も、この様子からすると、おそらく何らかの霊力を備えている可能性があるか・・・?



「なぎささん、大丈夫ですか?」

進藤竜一は、私を見たまま、そう言った。

そういえば、私が吹き飛ばした大海なぎさ。
数メートル飛ばされたのち、ブロック塀に背中から叩きつけられたはずだったが・・・。
いつの間にか、無表情で進藤竜一のすぐ後ろに直立不動で立っている。
・・・目が虚ろだ。これはまさか・・・。

「大丈夫です。問題ありません。」
「そうか、それはよかった。」

淡々としゃべる大海なぎさ。おそらく進藤竜一に操られている可能性が高い。
常人なら、ブロック塀に当たった時、意識を失うぐらいの衝撃は受けたはずだ。なのに、ダメージ1つ負ってない。

「おい、進藤竜一。大海なぎさを操って、どうするつもりだ?」
「操ってる!?」

私の少し後ろに座り込んでいる蒼谷ゆいが、私の言葉を聞いて、驚くように言った。
しかしすぐに咳き込んでしまい、後の言葉が出てこないようだ。

「大海なぎささんを操っている? 人聞きの悪いことを言わないでください。
 彼女は、協力すると自ら申し出てくれたのですから。」
「こ、こまちさん! そいつ、夕波を殺すとか世界を救うとか、訳の分からないことを!」

進藤竜一がしゃべった後、ようやく気力を振り絞って、蒼谷ゆいがそう言った。
その言葉で、進藤竜一が、何をしようとしているのか、ようやくわかった気がした。

そしてそれと同じタイミング。
それまで、不敵な微笑を浮かべていた進藤竜一の表情が変わる。
まるで猫のような、鋭い目つき・・・。

「・・・そうか、進藤竜一。お前は・・・。」
「あぁ、気づいてしまいましたか? やれやれ。少し遅いですよ。判断も、そして、動きも。」



ヒュン!



刹那、殺気が風に乗って私に飛んできた。
腰に下げていた【影桜】という、刃を包帯で巻いた特別な刀を抜き、その殺気を刀身で受け止める。

殺気の正体は、大海なぎさだった。
太陽の光に当てられてギラリと光っているナイフを、私に一直線に突き出そうとしていたのだ。
まるでその動きが見えなかった。殺気が感じられなかったら、刀を抜く暇も無く、ナイフで突き刺されていただろう。

しかし、あまりにも異様だ。
普通の人間では、やはり大海なぎさの今の動きはありえない。

ガリガリと、刃同士が擦れる。
今は【影桜】の拘束具である【紫炎帯】と呼ばれる包帯が、【影桜】の本来の力を抑えている状態だが、
それでもいつもなら相手を弾き飛ばすぐらいは可能なはずだが・・・。それができない。

「し、進藤竜一・・・。お前は【はじまりの魔法】の存在を・・・。」

私は、大海なぎさの背後で微笑を浮かべて、こちらの様子を伺ってくる進藤竜一を睨みつけながら言う。

「【はじまりの魔法】・・・。世界をあるべき姿に戻すために必要な、人間にかけられた呪いの名前。
 私はその呪いを使って・・・人間と、世界を救わなければなりません。」



人間と、世界を救う。そのために【はじまりの魔法】を使う。
・・・【はじまりの魔法】は、異界の神々である【九神霊】が人間に対抗する最終手段として作ったもののはずだ。
そして、【はじまりの魔法】の本体は現在、夕波みつきが持っている。



「どうしてその呪いの存在を知った!?」
「まだわかりませんか? ならば教えてあげましょう。なぎささん。」

進藤竜一が大海なぎさに一声かけると、あろうことか大海なぎさはそれまでナイフに込めていた力を一気に爆発させた。
まるで予想していなかった。あまりにも大海なぎさが奮った力に成す術も無く、私は吹き飛ばされた。
無情にも、地面に叩きつけられ、全身に激痛が走る。

「こまちさんっ!」

それまで蒼谷ゆいの傍に居た水原月夜が、私の方に駆け寄ってくる。

「こまちさん、大丈夫ですか!」

・・・昔は、ここまではっきりしゃべらなかった男が、今ではしっかり話せるようになっている。
少しは人間として成長したのかもしれないな・・・。
などと悠長なことを考えていると、進藤竜一の声が聞こえた。

「あなた方の背後に【九神霊】の一部がいるのと同じように、私の背後にもいるんですよ。」
「な・・・んだと・・・」

ゆっくりと体を起こし、進藤竜一の方を見る。
すると、そこには・・・。



「久しぶりだね、右京こまち。・・・いや、紅天聖の子孫と言った方がいいかな?」



私の家族を殺した”悪魔”がいた。



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昨晩のことを思い出すたびに、顔が赤く染まる。
水原が、私に言った言葉を思い出すたびに、胸の鼓動が早くなるのを感じる。

まさか、水原が私のことを好きだったなんて、少しも思っていなかった。
それも高校生の時から私のことを知っていて、私の死んだお父さんのことも知っていて・・・。

今まで水原が私に見せてきた行動の1つ1つを思い返すと、それはまるで私へのアプローチに見えてくる。
でもそんなことに私は気づかなかった。そればかりか不審な行動ばかりとる水原に、一定の距離を置いていた。
無理もないかもしれないが・・・。でも、昨晩の水原の話を聞くと、やはりそれは私になんとか近づこうとしていた証拠なのかもしれない。
それにあれほど機械的に、無表情のうちに時々見せる不気味な微笑を浮かべていたのは、水原が不器用だったからだろう。

しかし、私は気づかなかった。
水原が抱えていたのが、恋愛感情だけでは無かったことも含めて。



私の中に秘められた謎の呪い。
【烏丸家の呪い】・・・いや【はじまりの魔法】と、この屋敷の主である右京こまちは言っていた。
私の先祖が烏丸家であったことは、既に知っていた。公爵が【烏丸家の呪い】というものにかかって一度死んだことも、知っていた。
でもまさか、そんな呪いが私にかかっていたなんていうのは、想いもしなかった。

身体の成長が中途半端に止まってしまったのも、この呪いのせいだという。
私の今の体はどう見ても、小学校高学年か、あるいは中学生のなかでも小柄な子ぐらいのサイズしかない。
・・・それは胸のサイズも含めての話だが、それは今回はどうでもいいだろう。

私は、【はじまりの魔法】というよくわからない呪いを、【九神霊】というこれまたよくわからない組織か何かにかけられているらしい。
その【はじまりの魔法】を何者かが狙っている、と右京こまちや公爵は言っていた。
何者かは解らない・・・けれど、公爵たちは、そんなやつらから私を守ると言ってくれた。

今はまだ、わからないことばかりだけど、それでもきっと、公爵たちなら・・・。
水原なら・・・。私のことを大切に思ってくれているはずだから。心配は、いらない・・・。



「・・・よね?」



私以外誰もいない部屋なのに、そんな疑問を口に出してみる。
窓からは、朝の陽ざしがカーテンの間を縫うように差し込んでいる。

水原は結局、一晩私にこの部屋を貸してくれた。
右京家の屋敷の中でも、この部屋は過ごしやすい部屋になっているそうで、ベッドや家具なんかも揃っていると水原は言っていた。
水原は私と2人きりで話をした後、別の部屋に行って眠ります、と言って部屋を出て行ったが・・・。
正直なところ、別に違う部屋に行って欲しくは無かった。

水原と出会ってから今までの、お互いに秘めていた胸の内を、もっと、もっと話したかった。
でも、水原の優しさなのか、それとも恥ずかしさなのか、私への想いを打ち明けるなり、部屋を出て行ってしまったのだ。
本当にずるい男だ。ずるさだけなら、あの八条はじめにも匹敵するんじゃないだろうか。

まぁ・・・そんなところが、私は好きなのかもしれない。



部屋の隅に置いてあった大きな三面鏡の前に来る。
少し乱れた髪を整えていく。中途半端な時間に寝たのがいけなかったのか、うっすらと目の下にクマのようなものがある。
髪を整え終わったところで、部屋のドアをノックする音が聞こえた。

「はーい」
「あ、おはよう、みつきちゃん。開けても良いかい?」

烏丸祐一郎公爵だ。
私が肯定の返事をすると、部屋のドアが開けられ、公爵が入ってきた。
「大丈夫? よく眠れた?」と、私の顔色を伺いながら、公爵は尋ねてきた。

「うん。大丈夫。なんか最近寝てばっかりな気がしてるし。」
「・・・そっかそっか。あとでちゃんと水原君にお礼もしておかなきゃね。」
「・・・うん。」

また、昨晩のことを思い出してしまう。

「・・・水原は?」
「彼ならさっき、走って屋敷を出て行ったよ。ちょっと急いでいた様子だったから、止めはしなかったけど。」

壁にかけてある時計を見てみると、時間は午前7時をだいぶ過ぎていた。
公爵に聞くところによると、水原が出て行ったのはほんの10分ぐらい前らしい。
寝た時間が遅かったというのに、朝から水原はどこに行ってしまったのだろう・・・。

「水原君のことが、気にかかるのかい?」
「あ、別に・・・そういうわけじゃないんだけど。」

公爵の顔を見ると、なんだか寂しそうな表情を浮かべていた。
・・・公爵は、水原のことをどう思っているのだろう。

それを聞こうとして、でも途中でやめることにした。
たぶん、聞いたら公爵はもっと寂しそうな表情を浮かべる気がして。

公爵には1人、妹がいたらしい。
たぶんその妹の末裔が私に当たるのだろうから、公爵としては私が自分の妹に近い存在になっているはず。
それを考えると、公爵にとって私はやはり「大事な家族」なんだろうな、と思う。
私以外に・・・家族が居ないから。それは私もそうだけれど。私も公爵以外に家族は居ないけれど。
でも公爵は本来なら、この世界に居てはいけないはずの存在だから。

「家族」。お母さんを失い、お父さんを失った私にとってそれは・・・。



突然、頭に鈍痛が走る。身体が思うように動かなくなる。
【烏丸家の呪い】・・・いや【はじまりの魔法】が動き出したのだろうか。
近くに居た公爵に声をかけようとする。助けを求めようとするが、上手く声が出せない。
助けて・・・助けて、公爵・・・。助けて・・・水原・・・。

目の前の公爵は、私の異変に気付き、目を見開いた。
今にも倒れそうな私の体を支えようと、私の手を公爵が取ろうとした、その時。

突然、公爵の背後に、何者かが現れた。その何者かは、ゆっくりと言った。

「大丈夫。」

・・・また、あなたなの・・・?

「何も怖がらなくて良いから。大丈夫。」

いったい、どういうことなの?
あなたは、誰?

「私のことを、あなたは知っている。私も、あなたのことをよく知っているわ。
 いつも、あなたのことを見てきたから。あなたが笑っているときも、泣いているときも。」

そうじゃなくて・・・

「・・・あぁ、いけない。【狂った神】が意外と近くにいる。
 今は、あなたの身の安全を優先したほうが良いね。
 まだ時間は、わずかばかりだけど残っているから。太陽と月が重なる時まで、まだあるから。」

【狂った神】・・・?
太陽と月・・・?

「もう少しだから、もう少しの辛抱だから。時間が来れば、あなたは楽になる。だから待っていて。」



その言葉を最後に、公爵の背後に居た「私」は、光となって消失した。
同時に、私を縛り付けていた【はじまりの魔法】が解け、解放される。
幸い、私が倒れないようにと公爵が支えてくれていたおかげで、床に体を打ちつけることは無かった。

「みつきちゃん・・・大丈夫かい?」
「うん・・・。大丈夫。」

公爵は心配そうに私の顔を覗きこんでくる。

「ねぇ、公爵・・・今の声、聞こえた?」
「えっ?」

公爵の背後に居た「私」の存在に、公爵が気づいていたかどうかを聞いてみたが・・・しかし。

「私の声。公爵の後ろから。」
「・・・本当に大丈夫かい? 無理はしちゃだめだよ。」

どうも、気付かなかったらしい。
公爵の背後に居た「私」の存在も、その声も。
いったい・・・あれは、何なのだろう。



>>>



ごく一部の、一定の権力を持った者のみが入れる警視庁の文書保管室に、俺は来ていた。

「・・・これでも無さそうだな。」

次から次へと、手がかりになりそうな文書を開いては、目的のものを探すが、しかし見つからない。
どれもこれも、まるで俺が欲しがっている情報の一歩手前までしか文書には書かれていないことを見ると・・・。

「随分と、手の込んだことをするもんだ。」

俺が探しているのは、国家国防省の機密情報についてだった。
以前から、政府の裏の組織たる国家国防省には、何かが隠れていると思っていたのだが、
この様子からすると、どうもそれはアタリのような気がしてならない。

ここ最近、国家国防省の動きが少し異常だ、と親父は言っていた。
親父は、ここ、警視庁のお偉いさんで、いろんな裏事情にも詳しいのだが、その親父の力を以てしても、
「国家国防省が少しおかしい動きをしている」ぐらいの情報しか入手することができていないのだ。

まぁ、それを考えれば、こんな文書保管室で簡単に国家国防省の機密情報が手に入るわけもないのだが。
それでも俺は、なにか居てもたってもいられなくなって、こうして虱潰しに探しているのだが・・・。

「やはり、無駄足だったか。」

1つの書類棚の端まで来たところで、そうつぶやく。
ここの文書全てから探すのは、俺一人の力では何年かかるかわからない。
せめて協力してくれるやつでもいれば、まだ良いのだが・・・。

「・・・こういうことを考えると、まーた、あいつらの顔を思い出すんだよな。」

思わず苦笑してしまう。



「・・・」

異変に気付く。
何者かが、俺の動きを見張っている気がする。
この文書保管室には24時間体制で高性能監視カメラが回っている・・・が、これは明らかに人間の視線を感じる。
おまけに、ここに入れる人数は、1度に1人ないしは2人と決まっている。
俺と一緒に部屋に入った者はいない。もう一人後から誰かが入った可能性もあるかもしれないが・・・。

複数の何者かの視線を感じる。

まったく、文書保管室の入退室検査官は何をやっているんだ。
これじゃあ、重要文書だろうが機密情報だろうが、いくらでも外部に漏れだしてしまう。
・・・もしくは、入退室検査官もグル・・・か?

背後の大きな書類棚の向こう側に、2人。
正面の大きな書類棚の向こう側に、3人。
立っている通路右手側には、1人。

合計6人は、最低でも俺に視線を向けている。
俺が少しでも異様な動きを見せれば、すぐにでも一斉に飛び出してきて、俺の逃げ場を無くすだろう。
それだけのことを、視線を感じただけで推測した。

若干だが、殺気も感じる。だが、殺気を向けているのはそのうちの3人だ。
それぞれの方向に1人ずつ配置している。

(ちっ、やり方が上手いな)

心の中で舌打ちをする。殺気を向けている3人は、おそらく突撃要員なのだろう。
俺がもし、通路右手側に逃げようとした場合、通路右手側のやつ1人と、正面か背後のやつ1人が、俺の向かう先に先回りする。
正面か背後のやつの残り1人は、通路左手側から、俺の逃走経路をふさごうとする。
そして、俺が通路左手側に逃げようとした場合、通路右手側のやつ1人が俺の逃走経路をふさぎ、正面と背後のやつ2人が、
俺の向かう先をふさごうとするに違いない。

通路左手側に人の気配が無いのは、おそらく、この部屋の出入り口が1つしかなく、それが通路左手側の方から向かおうとすると、
遠回りになるために、前もって塞いでおく必要が無いからだろう。いざとなれば、唯一の出入り口を塞いでしまえば、俺に逃げ道はない。

頭の中で、この状況の打開策を考える。
勉強は苦手だったが、こういう時の頭の回転だけは速いのだ。

幸いなことに、来ている燕尾服の内側には愛用の拳銃が1丁だけ入っている。
本来は3丁持っているのだが、この部屋の入室の際に、銃を預けなければならない決まりになっていたために、2丁は預けてしまった。
1丁だけはどうしても手放す事ができないため、入退室検査官にどうにかお願いをして、特別に許可をもらった。
・・・それを考えると、入退室検査官は、グルではなく、この何者たちかによる襲撃を受けてしまった可能性も出てくる。



俺は、通路右手側にも、左手側にも向かおうとは思わなかった。
第3のルートを使って、この場を切り抜けることにした。



「・・・ふんっ!」



目の前の書類棚を、蹴る。
蹴って・・・書類棚の上にあがる。

それと同時、俺に向けられていた視線と殺気が動き出す。
まさか、俺が書類棚の上にあがるとは思っていなかっただろう。何者かたちの動きが乱れるのが手に取るようにわかる。
そして俺は、書類棚の上から、そいつらの正体を見た。

「くそっ! 上だ! 撃て!」

そいつらの正体を見ると同じタイミングで、銃口を向けられる。
俺に銃を向けてきたのは・・・黒スーツの男たちだ。
間違いない。国家国防省の保持する特殊組織のメンバーである。

咄嗟に右に飛んで、国家国防省のやつらが放った銃弾を避ける。こうなってしまっては、もう立ち止まってはいられない。
この書類棚は、超大型地震でも倒れないように設計されているため、上を駆け抜けても俺がバランスを崩す心配はない。
書類棚の幅も広く、天井までの高さも1m少しあるので、前のめりになって走ることは十分に可能なのだ。

途中、隣の書類棚へ移動したり、方向転換したりする。
それに翻弄されるように動くやつらの隊列は徐々に崩れ始めていた。
俺に視線を向けてきていた6人を全員確認したところで、この部屋の唯一の出入り口へと向かう。

「・・・だろうと思ったよ。」

出入り口が見える書類棚まで来たところで、俺は呻くように言った。
当然と言えば当然なのだが、入り口にはやつらの仲間であろう黒スーツの男が2人、出入り口を塞ぐように立っていた。
2人は、書類棚の上に乗っている俺の姿に気づくと、腰から銃を抜き、俺に向けてくる。
一瞬の判断で、俺は書類棚から降りると、直後に俺の居た場所に銃弾が放たれる。

やつらが走ってこちらに近づいてくる音が聞こえてくる。このまま囲まれたら非常にまずいだろう。

「っ!?」

突然、俺の背後に何者かの存在を感じた。
そいつは、俺の右手首をしっかり掴んでいる。
一瞬の出来事に、まったく何も反応できなかった。

「こちらです。」

そう声をかけられ、振り向こうとすると、何者かは、俺の手首をつかんだままいきなり走り始めた。
そいつの姿を確認すると、黒スーツ・・・じゃあない。

この場所にはまるで違和感がない、警察官の服装である。
背は高く、長身の俺よりあるかもしれない。
顔は見えないが、男であることは、先ほどの声からも、見た目からもわかる。

「お前は誰だ?」
「自己紹介と説明は後です。今はこの状況を切り抜けましょう。」

この切羽詰まった状況の割には、落ち着いた口調で話す男。

「次のところを右に曲がります。」

俺の手首から手を放した男は、振り返りもせずに言う。
何者かは全く分からないが、妙に落ち着いたこの男を何故か信用しても良い気がして、俺は黙って指示に従った。
右に曲がるとき、男は傍にあった書類棚に、何かを仕掛けたのを、俺は見逃さなかった。
今度は「左に曲がります。」と言われ、男の後を追うように左に曲がる。
その時もやはり、書類棚に何かを仕掛けていた。いったい、なにをするつもりなのだろう。

後ろからは相変わらず追手が迫ってくるが、どうも足の速さは俺たちとやつらにあまり差が無いようで、
銃で狙われようとすると、前を走る謎の男が妙にタイミングよく指示を飛ばしてくることから、未だに被弾していない。

しかし、こうも走り回っていると、そのうちに敵も冷静になりはじめて、囲まれやしないかと思い始めた。
だが、謎の男はまるで敵の動きがすべて手に取るようにわかっているかのごとく、動き続ける。



・・・そして、

「ここでストップです。」

謎の男は、部屋の一番奥の壁に当たるT字路に来たところで立ち止まった。
俺も従うように立ち止まる。そこでようやく謎の男の顔を見ることができた。
寡黙な印象を受ける、どこか遠くを見据えたような目をした青年。
俺と、そんなに年齢の差は無いように見える。20代後半か。
・・・しかし、あれだけ走っておいて、息1つ乱していない。

「・・・いったい、どうするつもりだ?」
「耳をふさいでください。」
「ん?」

正面から、黒スーツの男たちが迫ってくるのを見ながら、そう言われた俺は、やはり黙って従った。
・・・おそらく、今からこの男がすることは・・・

「3・・・2・・・1・・・」



ズガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアン



耳をふさいでいるにも関わらず、とてつもない轟音を立てて、部屋の至る所で爆発が起きた。
爆発が起きた場所は、いずれも、この男が書類棚に何かを仕掛けていたところだった。
轟音とともに、黒スーツの男たちの叫び声が挙がる。

「・・・念のため、設置場所を2か所増やしておいたのですが、不要だったみたいですね。」

男が爆発を見ながら淡々と言う。
まさか・・・この部屋の中で、黒スーツの敵全員の動きを把握し、仕掛けた爆弾のみで全員を倒そうとしていたというのか。
そうだとしたら、この男・・・只者ではない。いや、それは俺の背後に突然現れた瞬間から、薄々思っていたことではあるが。

「これほどの爆発だと、この部屋にある重要書類のいくつかは焼失だぞ?」
「仕方がありません。これでも最小限の爆弾しか使用しておりませんので。
 それに、この部屋の中にあなたが探している書類はありませんよ?」

謎の男は、俺を見ながらそう言ってくる。
俺が探している書類は、無い?

「国家国防省の機密情報が載っている書類をお探しと思いましたが、違いましたか?」
「・・・なんで俺がそれを探していると知っている?」
「それは秘密です。」

そう言って気味の悪い微笑を浮かべてくるこの男。あまりにも異様だ。

「自己紹介がまだでしたね。私は亀山弦一、と申します。見ての通り、一介の警察官です。」

胸ポケットから警察手帳を出してくる、亀山弦一と名乗った男。
一介の警察官、そんなやつがどうして、警視庁の中枢近くにある文書保管室なんかにいるのだろうか。

「あなたのことは知っています。警視庁でもかなり有名な方ですからね。
 噂では、海外の方へ行かれてた、と聞きましたが。その様子では、つい先日帰国した、というところでしょうか。」
「・・・」

俺は、何も答えることができなかった。
海外・・・ロシアに行っていたのは事実だ。そして、帰国からまだ1週間ほどしか経っていない。
こいつはどこまで俺のことを知っているのだろうか。

「本題に移りますと・・・。あなたは国家国防省に狙われています。」
「その理由は何だ?」
「ある少女を、助けてしまったからです。」

亀山の言葉を聞いて、俺の頭の中に、1人の少女が思い浮かぶ。
黒スーツの男たちに連れ去られようとしていた、意識を失っていた少女。
あれは最初、間違いなく誘拐だと思っていたが、黒スーツの男たちを無力化した時、
彼らのポケットから警察手帳を見つけて、それがただの誘拐では無い、と確信していたのだ。
しかも、その後の調査で、彼ら黒スーツの男たちが、どうも国家国防省にかなり近い存在であったことも明らかになった。
だから・・・俺は国家国防省について、調べていたのだ。
政府の裏に存在する、組織について。

「お前の言う”少女”に、俺は心当たりがある。その少女は、国家国防省にとって重要な存在なのか?」
「・・・そうですね、大変重要な存在です。それも、国家レベルの規模ではなく、世界規模で。」

世界規模で・・・?
ますますわからなくなってきた。

「先ほどの黒スーツの男たちは、国家国防省の特殊組織メンバーですが、元々は警察官です。」
「それはなんとなくわかっていた。やつらが使用していた銃も、警察官御用達のものだしな。
 ・・・ということは、国家国防省と、警察が裏でつながっている、と言うのか?」
「いえ、組織全体がつながっているわけではありません。国家国防省は、有能な警察官を次々と取り込んで、
 その力を増大させているに過ぎないのです。」

俺が海外に行っている間に、そういうことが裏で起きていたことに、衝撃を隠せなかった。
比較的、警視庁の深いところまで知っていたはずの俺は、それに憤りを感じた。

「前置きは、これぐらいにしておきましょう。そろそろ国家国防省も警察の深層部まで届きそうな勢いですから、
 またこの部屋に黒スーツの仲間が来ないうちに、移動しておきましょう。」
「・・・どこに移動するつもりだ?」



少し、亀山は宙を見上げ、何かを考えているようだったが、10秒ほど間が空いて、こう言った。



「私たちの仲間のもとへ、です。」



続く